ジャカルタ-バンドン高速鉄道に関する私見

話題が話題なので最初にお断りを。これは私の個人ブログで、以下の意見は私が属している組織を代表しているわけではありません。認識不足含めた文章にかかる全責任は属する組織ではなく私にあります。

 

最近、インフラ、特に鉄道と国際政治の周辺が騒がしい。マスコミでも散々取り上げられた、インドネシアにおける「ジャカルタ-バンドン高速鉄道」は特にその俎上に載ることが多い。ただ、ネットでの意見は理解不足や偏見も散見される。今回のエントリーでは、この案件について私が把握する点を整理し、日本側にとって何が課題であったかを論じたいと思う。私は、日本が大好きだが国際協調主義者でもある。中国共産党の政治運営には必ずしも賛同できない部分も多いが中国の昨今の技術力の向上は認めざるを得ないとも感じてる。出来るだけ右左双方が気を悪くしないように、かつ今後につながるように建設的な論を進めていきたい。

 

日本が資金を出してコンサルタントを雇い行った調査はフィージビリティスタディと呼ばれ、日本語にすると「実現可能性調査」になる。文字通り、実現するかしないかを、技術的、財政的、社会環境的に検討するものだ。もちろんお金を使って調査をするからには、実現させたいという意志がある個人や団体がいるのは事実である。しかし、その時点では整備に向けて日本国として融資をすると決まっているわけではない。あくまで「やるかやらないか」の判断をする調査を日本が資金を出して日本人技術者を使って実施した、という事である。従って、「日本がやると決まっていたのに中国が横取りした」は必ずしも正確ではない。日本は実現可能性調査を実施して、その投資意欲をインドネシア側に示したが、インドネシアは後から出された中国の提案を選んだ、という事。コンペに参加して負けたから「相手も相手を選んだクライアントもけしからん」ということにはならない。もちろん今回のケースでは中国が後出しとなったので純粋なコンペとは言えないが。

 

そして、その調査結果は全て当該国に提出をする。なので、「日本が行った調査を中国が非合法に入手してそれをコピペして調査書を仕上げた」も間違い。調査結果はインドネシア側に正式に渡しているので、それをどのように用いるかはインドネシア側の自由。それを他国に閲覧させてはいけない、という約束にはなっていないはず。中国の検討が日本のそれを参考にしたことはどうやら間違ってはいなさそうだが、「非合法に」ではなく「正当な方法で堂々と」行った、と言える。コンサルタントが業務を開始する際に最初に行うことは当該地における同分野の「既存調査」のレビュー。研究者がまず「既存研究のレビュー」を行うのと同じである。中国もそれを行ったに過ぎない。

 

また、「中国は格安の値段提示で日本の提案を潰した」も正確さを欠く。ジャカルタにおける駅位置が、日本提案のそれは利便性を考えて都心に、中国の提案は郊外になっていて、そもそも費用では単純に比較は出来ない。これは高速鉄道に対する両国の考え方の違いに起因している。日本の新幹線は利便性第一で出来るだけ在来線と同じ位置に駅を置いている。横浜や大阪、神戸などそうはなっていない都市もあるが、それでもそれほど離れているわけではない。一方の中国の高速鉄道の駅は郊外に位置しているものが多いと聞く。運転速度が速いおかげで高速鉄道の乗車時間は短いが、駅までのアクセスとイグレス(到着駅から目的地まで)に時間がかかる、というのは中国高速鉄道でよく聞く不満である。

 

かつ、日本と中国の高速鉄道整備を比べると実は日本のほうが安くなる理由がある。高速鉄道は当然基本複線であるが、線路と線路の間の距離、軌道中心間隔が日本の新幹線は4.3mで対応可能だが、一方の中国は5.0mを取っている。たかだか70cmの違いだが、これが130kmの延長になると9.1ha分の土地となる。高架部分では土木構造物の大きさに左右するし、一番影響が大きいのがトンネルである。この軌道中心間隔の違いに加えて日本の新幹線車両は気密性に優れているためにトンネルの径をさらに小さくすることが出来る。最新の技術での中国の高速鉄道のトンネルの径を把握していないが、日本の複線トンネル断面の半径4.75mよりも小さいことはないだろう。当然土木だけではなくて車両、信号などの他のインフラの費用もあるが、高速鉄道整備における土木費の占める割合は大きいので、仮に同じ駅位置・線形で提案していたら日本のほうが安くなっていた可能性は高い。

 

では、なぜインドネシア側は中国の提案を選んだか、というのがポイントになる。国際政治的なバランスを考慮してということもあると思うが、最大の理由は、日本が政府への(あるいは政府保証付きの)貸与を提案しそれを最期まで変えなかったのに対して、中国側は中国とインドネシアとの合弁会社への融資で整備を行う、という提案をした点であろう。そして次の疑問が出るはずである。なぜ日本はそうしなかった、のかと。ここに日本のODAに対する考え方が関係してくる。

 

日本のODAは、「相手国の成長と自立を促すもの」でないといけない。つまり、相手国の経済的な成長を望んでインフラ整備のために投資を行うが、過度の無償援助は避けて貸与という形を取ることで相手に責任を持ってもらう。貰う一方の関係だと相手は依存をし自立しようという気持ちを持たなくなる。借金であればオーナーシップを持って真剣に無駄を排除し自分たちのインフラとして大事に運用していくだろう、というのが日本のODAの理念だ。そして整備のための費用は貸与するがその後は自分たちの管理下で自立をして運用をしていかないといけない。冷たいようだが相手の成長と自立を思っての配慮である。

 

一方で中国のODAにはそういった理念はない。あくまで出資であり利国である。ここに決定的な違いがある。OECDにも加盟しておらず全て中央政府の意向で物事が決定される中国はいわば「何でもあり」の国家である。日本が相手国の「自立」を望んで融資を行っている一方、中国は相手国を(部分的に)自立させないツールとして使っている印象を受ける。こちらはボクシングをしようとしているのに、相手はレスリングを仕掛けてきた、というのが偽らざる気持ちだ。同じ土俵の勝負ではなかったのである。

 

だからといって日本はこのまま「崇高な理想」のみを追いかけていてよいのか、というとそこは判断が難しい。「お金を貸してあげるから自立するよう頑張りなさい。」と厳しい態度で迫る人と、「ぜひ一緒にやりましょう!経営責任は私も負います!」と甘い顔をして近づく人の二者がいたら、後者を選んでしまう人が多いだろう。もちろん甘い顔の相手を選んで始まった案件は得てして上手く進まないことも多い。一方で、そういった経験を積むことで中国も次案件への反省を学習し成長をする。入口で参加できないと学ぶ機会も失ってしまうのだ。

 

ODAの目的自体が実質的な戦後賠償から日本の成長にも寄与する事にシフトしている以上、その運用についても柔軟に対応していく必要があると思う。こちらの理想の押し付けではなく、相手の事情や思いも鑑みて、かつ結果的に相手にとっても日本にとっても良好なインフラづくりとなるよう、ODAの運用にかかる制度設計を柔軟に調整するべき時期ではなかろうか。この案件を中国に取られたことで、今上手く進んでいないからと溜飲を下げるだけではなく、ここで得た教訓を次に活かし、同じことの繰り返しとならない努力をしていくべきだと思う。