ハノイとホーチミン市における街づくり一考察

「ハノイとホーチミン市、どちらが好きですか?」

 

よく聞かれて、よく返答に窮する質問である。ホーチミン市では余り聞かれないが、ハノイで自分はホーチミン市に住んでいると言うと、大抵この質問を受け、そして大抵困る。もちろん素直には答えられず、「両方の都市で素晴らしいところがある」と言って大抵お茶を濁す。

 

都市としてのホーチミン市の歴史はそれほど古くない。元々クメール(カンボジア人)の港だった土地を北から来たベトナム人が徐々に奪い取ったのが17世紀。その時点でサイゴンという名前を付けられたようだ。そして19世紀のフランス占領下。フランス帝国のインドシナ侵攻はダナンに始まりベトナム南部に本格的に攻め入っていく。フランス帝国は当時この地域を統治していた阮朝との戦争を制してベトナム南部を手中に収め、今のホーチミン市に置いたのが「コーチシナ総督府」。やがて周辺の保護国とともに仏領インドシナと呼ばれる支配地域が形成され、20世紀初頭にハノイにその役割を渡すまで、サイゴンが仏領インドシナの「首都」としての役割を担った。

 

当時のサイゴンには 「嘉定(Gia Định)城」と呼ばれる城があったが、コーチシナ総督府、インドシナ総督府の設置に伴い、それは破壊されフランスによって新しい街づくりが行われた。折しも時は19世紀後半。本国パリではジョルジュ・オスマンによる「パリ改造」という大きなムーブメントが起きており、凱旋門から放射状の大通りの設置など、近代都市としてのパリの骨格が形成されていた。そしてその思想はインドシナ総督府が設置されたサイゴンにおいても適応される。街路樹で飾られた放射状の大通り、ランドアバウト…それらはオスマンの理想的な都市と見事に合致する。そうして、今のホーチミン市の骨格が形成された。

 

一方のハノイ。こちらは大変長い歴史を持つ。7世紀に唐が「安南都護府」を設置して以来、ベトナムの中心都市としての役割を担ってきた。百人一首にも選ばれる「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を詠んだ阿倍仲麻呂が一時期この安南都護府の長官を務めていた、という事実からもハノイの歴史の長さをおわかり頂けると思う。その後、李朝を興した李太祖(Lý Thái Tổ)がハノイ(タンロン)を都に定めたのが1010年。19世紀初頭には阮朝が首都をフエに移したこともあったが、ベトナムの中心都市としての位置づけは1300年以上の間変わらなかったと言ってもよい。

 

ハノイの街は当時のタンロン城を中心として発達し、今でも古い街区がそのまま残る。インドシナ総督府はサイゴンからハノイに移りその後(サイゴン時代よりも長い)43年間に渡ってその役割を果たしてきたが、ハノイはフランスにとってもtoo old to rebuild(再開発するには古すぎた)であったようで、今でもフレンチクォーターと呼ばれる地区はあるものの、それはあくまで一街区に留まり、中心部での都市の骨格は基本的には1000年の歴史を継続したものとなっている。

 

そして近年の目覚ましい経済成長と都市化。南のホーチミン市においては、新しいものをどんどん取り入れようとする南部人の気質もあってか、新たな開発が中心部において次々に進められている。そして、先に見てきたようにフランス統治時代の名残りによって特に中心部において都市の骨格がきちんと形成されているので、それを受け入れるだけの道路インフラが(今のところ)存在している、と言える。一方の北のハノイは、旧市街と呼ばれる中心部は基本的には手を付けないままで、郊外(ハノイの場合は特に西部)に新たな開発を促進させている。この手法は周辺国のバンコクやジャカルタ、マニラを見ても同様なので致し方なしとも言える。ただし、世界都市としてのアイデンティティの形成を考えると中心部が活性化した方が望ましいし、旧市街と新市街との間の交通はいずれにせよ発生するため、先に上げた周辺国の大都市のいずれも世界最悪の渋滞都市というレッテルを貼られている状況を鑑みても、都市計画上、必ずしも望ましくないのではという意見を私は持っている。

 

しかし、そうはいっても最近のホーチミン市の渋滞も酷い。そして中心部での開発の潮流は今後も暫く続くであろう。時間はかかってしまっているが、2020年開業目標のホーチミン都市鉄道1号線、そしてそれに続く他路線の整備はその渋滞緩和の大きな一助になることを確信している。つまり、都市のシンボルである中心部をより魅力的に活性化し、負の側面である渋滞を都市鉄道で軽減する、そして、その都市鉄道の整備によって中心部がさらに活性化される、というのがアジアの世界都市の生きる道ではないか、と考えている。

 

先の述べたオスマンによるパリ改造。ここで整備された道路網によってパリの都市としての防衛力が低下しそれがナチスによるパリ侵攻を招いた、という意見もあるように、何が正解かを語るのは難しい。ただ、誇れる都市は郊外における画一的な開発では生まれない。冒頭で述べた質問に自信と誇りを持って答えられる都市になるためには、その都市にしか存在しない資産を活かす整備・開発を進めるべきであるし、私も引き続きその形成に少しでも寄与できたら、と思っている。