インドネシアのGitu、フィリピンのDiba、ベトナムのTroi oi

2018年最後のこのエントリーでは、言語学や比較文化学の専門家でも何でもない私が、主にインドネシア、フィリピン、ベトナムの3つの国に住んでみて気がついた彼らの口癖と、その背景にあるのではないかと感じられる文化や風習について触れたいと思う。

 

インドネシア(ジャカルタ)で良く聞く口癖が Gituである。これは、Begituの省略形で、英語にすると文の終わりに付く...,like thatという風に聞こえる。日本語にするのが難しいが、少し前の言い方だと「って感じ」になろうか。インドネシアの人たちは一般的に自己主張が強くなく自分の意見を周囲に合わせる傾向にある。「空気を読む」とでも言うのか。Gituが文の最後に付く場合には、自分の意見を言うときに、その主張が強い印象を与えないために「って感じ」と柔らかく締めくくる感じだ。

 

フィリピン人が良く使う言葉の一等賞はDi baではないだろうか。英語の文法でいうと付加疑問文、日本語では「でしょ?」に該当する。フィリピン人は自分の主張を正当化する事が周辺国と比べてやや多い傾向にあるように感じる。主張はするが自分が信じていれば良い個人主義ではなく、その主張は周りからの賛同も得たい。西洋と東洋の両方の文化を有しているのがフィリピンであると私は考える。そう言った文化的バックグラウンドが、彼らの会話の中で頻繁に使われるDi baに出ているのではないだろうか。

 

ベトナムでは、Trời ơiがやはり挙げられると思う。英語にすると文字通りOh my God!だ。ただし、英語でのOh my Godは驚嘆に使われるのが多いと思われるのに対して、ベトナム人のTrời ơiは主に感嘆に使われている印象だ。神様助けて下さい!よりも、神様どうにかしてよ!という他人である天に責任をやや押し付けるニュアンスをTrời ơiには感じる。生活での不満や不安は自省で落ち込まずに天への愚痴でやり過ごす。厳しい環境で育ってきたベトナム人の生活の知恵であるとも言える。

 

主張を強めないインドネシア人、主張に同意を求めるフィリピン人、そして天に愚痴を言うベトナム人。同じ東南アジアでも文化も風習も大きく異なる。これらの地への日本の鉄道システムの輸出は、Gituで行くべきか、Dibaで行くべきか。最後にTrời ơiと嘆かないようにはしたいとは思う。