計画都市をめぐる冒険

久しぶりの投稿になる。

 

2021年第四四半期は、新たな国であるバングラディシュでダッカ地下鉄の案件に関わったりしたのだが、いまいちブログを書く気力が湧いてこず、4ヶ月ぶりの更新となってしまった。

 

私のこれまでの49年間の人生を振り返ってみると、三つ子の魂百まで、ではないが、同じような住環境を求めてきたな、と改めて感じるもので、今回のエントリーはそんな話。

 

生まれたのは神奈川の小田原市だが、1歳のときに家族で京都の福知山市に引っ越した。福知山市というのは京都市から100キロも北西に行く丹波の地方都市で、明智光秀が築いた城下町が広がる小都市である。父親の勤務先は「長田野工業団地」という(当時)内陸にある工業団地で日本最大規模と謳われた場所にあった。福知山にはかつて陸軍の連隊区が置かれており、その演習場跡地を工業団地に造成して出来たのが長田野工業団地だと理解している。その工業団地に隣接して整備された住宅地区に1歳から高校卒業まで住んでいた。厳密な意味では計画都市には該当しないかもしれないが、いわゆる昔からの市街地ではなくて、計画的・人工的に整備された街区で幼児から青春時代を過ごしたのである。

 

私には2つ上の兄がおり、兄が進学先に選んだのが筑波大学。高校2年生のときに兄を訪問しにつくばまで行き、そこで見て体験した「筑波研究学園都市」に一目惚れしてしまった。当時の私は「都市計画」という言葉に強く惹かれていて、そのような仕事に就きたいと思っていた。そして筑波大学には都市計画専攻を有する社会工学類という学部があり、かつ計画都市の日本代表のような筑波研究学園都市にあるという環境。私は早くから志望校を1校に絞り、他の大学は一切受験せず進学。計画都市ラブのなせる業である。

 

その後フィリピン大学大学院修士課程への留学を経て、東工大大学院博士課程に進学。自分の研究室は長津田にあり、月に2,3度は大岡山のメインキャンパスに行く必要があったので車で通っていたのだが、道中は必ず港北ニュータウンを通り、「センター北萌え」を自分の中で育んでいた。仮に東京近郊に住むことになったら港北NTだと当時は考えていたが、残念ながらそれは実現しそうにはない。

 

その後就職して2002年から断続的にベトナムの案件に関わるようになり、2003年には息子が誕生。2004年以降、ホーチミン市での勤務がある程度ある間は、7区のPhú Mỹ Hưngにアパートを借りて家族で生活するようになった。Phú Mỹ Hưng a.k.a. サイゴンサウスは、ホーチミン市南部の湿地帯に台湾のディベロッパーが大規模造成を行って開発した新都市であり、水と緑に囲まれたとてもきれいな街づくりを行っている街区である。私はこのPhú Mỹ Hưngをいたく気に入り、このブログでも以前ご紹介したとおり、2012年にはマンションの購入も行っている。当時は外国人のマンション購入は特例として認められ始めたところで、よほど珍しかったのか、下記リンクの通りPhú Mỹ Hưng社からインタビューも受けている。

phumyhung.vn

 

これが私自身のこれまでの「計画都市をめぐる冒険」なのだが、昨年これに新たな一章が加わった。息子が進学したカリフォルニア大学アーバイン校があるカリフォルニア州オレンジ郡のアーバイン市こそ、アメリカにおける計画都市の本家のような街なのである。カリフォルニア南部に拠点を置くディベロッパーであるアーバイン社によって計画され整備されてきた街区で、1965年にはカリフォルニア大学の誘致に成功、1971年に「アーバイン市」として市政に移っている。私がかつて住んだ筑波研究学園都市はアーバイン市を参考に計画されたとも言われており、つくば市とアーバイン市は姉妹都市でもある。アーバイン市は全米一犯罪率が低い都市とも呼ばれ、教育のレベルもすこぶる高く、最近もアメリカで住むのに最も良い都市第10位に選ばれたようだ。私のDNAが作用したか、息子が現在住む街も、国は変われど「計画都市」になった。

 

マンションを購入し、自分の会社も設立したので、私自身は居住地を変えることはしばらくないとは思う。ただ、まだ行ったことないのでアーバイン市も早く訪問したいし、何なら仕事が落ち着いたら、ベトナムとアメリカ、Phú Mỹ Hưngとアーバイン市の2つの計画都市に交互に住む、みたいな生活もいつか送ってみたい。そんな理想を夢見て、円安の今、息子の留学を必死に支えている俺ガイル。