ジャカルタ-バンドン高速鉄道に関する私見

話題が話題なので最初にお断りを。これは私の個人ブログで、以下の意見は私が属している組織を代表しているわけではありません。認識不足含めた文章にかかる全責任は属する組織ではなく私にあります。

 

最近、インフラ、特に鉄道と国際政治の周辺が騒がしい。マスコミでも散々取り上げられた、インドネシアにおける「ジャカルタ-バンドン高速鉄道」は特にその俎上に載ることが多い。ただ、ネットでの意見は理解不足や偏見も散見される。今回のエントリーでは、この案件について私が把握する点を整理し、日本側にとって何が課題であったかを論じたいと思う。私は、日本が大好きだが国際協調主義者でもある。中国共産党の政治運営には必ずしも賛同できない部分も多いが中国の昨今の技術力の向上は認めざるを得ないとも感じてる。出来るだけ右左双方が気を悪くしないように、かつ今後につながるように建設的な論を進めていきたい。

 

日本が資金を出してコンサルタントを雇い行った調査はフィージビリティスタディと呼ばれ、日本語にすると「実現可能性調査」になる。文字通り、実現するかしないかを、技術的、財政的、社会環境的に検討するものだ。もちろんお金を使って調査をするからには、実現させたいという意志がある個人や団体がいるのは事実である。しかし、その時点では整備に向けて日本国として融資をすると決まっているわけではない。あくまで「やるかやらないか」の判断をする調査を日本が資金を出して日本人技術者を使って実施した、という事である。従って、「日本がやると決まっていたのに中国が横取りした」は必ずしも正確ではない。日本は実現可能性調査を実施して、その投資意欲をインドネシア側に示したが、インドネシアは後から出された中国の提案を選んだ、という事。コンペに参加して負けたから「相手も相手を選んだクライアントもけしからん」ということにはならない。もちろん今回のケースでは中国が後出しとなったので純粋なコンペとは言えないが。

 

そして、その調査結果は全て当該国に提出をする。なので、「日本が行った調査を中国が非合法に入手してそれをコピペして調査書を仕上げた」も間違い。調査結果はインドネシア側に正式に渡しているので、それをどのように用いるかはインドネシア側の自由。それを他国に閲覧させてはいけない、という約束にはなっていないはず。中国の検討が日本のそれを参考にしたことはどうやら間違ってはいなさそうだが、「非合法に」ではなく「正当な方法で堂々と」行った、と言える。コンサルタントが業務を開始する際に最初に行うことは当該地における同分野の「既存調査」のレビュー。研究者がまず「既存研究のレビュー」を行うのと同じである。中国もそれを行ったに過ぎない。

 

また、「中国は格安の値段提示で日本の提案を潰した」も正確さを欠く。ジャカルタにおける駅位置が、日本提案のそれは利便性を考えて都心に、中国の提案は郊外になっていて、そもそも費用では単純に比較は出来ない。これは高速鉄道に対する両国の考え方の違いに起因している。日本の新幹線は利便性第一で出来るだけ在来線と同じ位置に駅を置いている。横浜や大阪、神戸などそうはなっていない都市もあるが、それでもそれほど離れているわけではない。一方の中国の高速鉄道の駅は郊外に位置しているものが多いと聞く。運転速度が速いおかげで高速鉄道の乗車時間は短いが、駅までのアクセスとイグレス(到着駅から目的地まで)に時間がかかる、というのは中国高速鉄道でよく聞く不満である。

 

かつ、日本と中国の高速鉄道整備を比べると実は日本のほうが安くなる理由がある。高速鉄道は当然基本複線であるが、線路と線路の間の距離、軌道中心間隔が日本の新幹線は4.3mで対応可能だが、一方の中国は5.0mを取っている。たかだか70cmの違いだが、これが130kmの延長になると9.1ha分の土地となる。高架部分では土木構造物の大きさに左右するし、一番影響が大きいのがトンネルである。この軌道中心間隔の違いに加えて日本の新幹線車両は気密性に優れているためにトンネルの径をさらに小さくすることが出来る。最新の技術での中国の高速鉄道のトンネルの径を把握していないが、日本の複線トンネル断面の半径4.75mよりも小さいことはないだろう。当然土木だけではなくて車両、信号などの他のインフラの費用もあるが、高速鉄道整備における土木費の占める割合は大きいので、仮に同じ駅位置・線形で提案していたら日本のほうが安くなっていた可能性は高い。

 

では、なぜインドネシア側は中国の提案を選んだか、というのがポイントになる。国際政治的なバランスを考慮してということもあると思うが、最大の理由は、日本が政府への(あるいは政府保証付きの)貸与を提案しそれを最期まで変えなかったのに対して、中国側は中国とインドネシアとの合弁会社への融資で整備を行う、という提案をした点であろう。そして次の疑問が出るはずである。なぜ日本はそうしなかった、のかと。ここに日本のODAに対する考え方が関係してくる。

 

日本のODAは、「相手国の成長と自立を促すもの」でないといけない。つまり、相手国の経済的な成長を望んでインフラ整備のために投資を行うが、過度の無償援助は避けて貸与という形を取ることで相手に責任を持ってもらう。貰う一方の関係だと相手は依存をし自立しようという気持ちを持たなくなる。借金であればオーナーシップを持って真剣に無駄を排除し自分たちのインフラとして大事に運用していくだろう、というのが日本のODAの理念だ。そして整備のための費用は貸与するがその後は自分たちの管理下で自立をして運用をしていかないといけない。冷たいようだが相手の成長と自立を思っての配慮である。

 

一方で中国のODAにはそういった理念はない。あくまで出資であり利国である。ここに決定的な違いがある。OECDにも加盟しておらず全て中央政府の意向で物事が決定される中国はいわば「何でもあり」の国家である。日本が相手国の「自立」を望んで融資を行っている一方、中国は相手国を(部分的に)自立させないツールとして使っている印象を受ける。こちらはボクシングをしようとしているのに、相手はレスリングを仕掛けてきた、というのが偽らざる気持ちだ。同じ土俵の勝負ではなかったのである。

 

だからといって日本はこのまま「崇高な理想」のみを追いかけていてよいのか、というとそこは判断が難しい。「お金を貸してあげるから自立するよう頑張りなさい。」と厳しい態度で迫る人と、「ぜひ一緒にやりましょう!経営責任は私も負います!」と甘い顔をして近づく人の二者がいたら、後者を選んでしまう人が多いだろう。もちろん甘い顔の相手を選んで始まった案件は得てして上手く進まないことも多い。一方で、そういった経験を積むことで中国も次案件への反省を学習し成長をする。入口で参加できないと学ぶ機会も失ってしまうのだ。

 

ODAの目的自体が実質的な戦後賠償から日本の成長にも寄与する事にシフトしている以上、その運用についても柔軟に対応していく必要があると思う。こちらの理想の押し付けではなく、相手の事情や思いも鑑みて、かつ結果的に相手にとっても日本にとっても良好なインフラづくりとなるよう、ODAの運用にかかる制度設計を柔軟に調整するべき時期ではなかろうか。この案件を中国に取られたことで、今上手く進んでいないからと溜飲を下げるだけではなく、ここで得た教訓を次に活かし、同じことの繰り返しとならない努力をしていくべきだと思う。

 

ハノイとホーチミン市における街づくり一考察

「ハノイとホーチミン市、どちらが好きですか?」

 

よく聞かれて、よく返答に窮する質問である。ホーチミン市では余り聞かれないが、ハノイで自分はホーチミン市に住んでいると言うと、大抵この質問を受け、そして大抵困る。もちろん素直には答えられず、「両方の都市で素晴らしいところがある」と言って大抵お茶を濁す。

 

都市としてのホーチミン市の歴史はそれほど古くない。元々クメール(カンボジア人)の港だった土地を北から来たベトナム人が徐々に奪い取ったのが17世紀。その時点でサイゴンという名前を付けられたようだ。そして19世紀のフランス占領下。フランス帝国のインドシナ侵攻はダナンに始まりベトナム南部に本格的に攻め入っていく。フランス帝国は当時この地域を統治していた阮朝との戦争を制してベトナム南部を手中に収め、今のホーチミン市に置いたのが「コーチシナ総督府」。やがて周辺の保護国とともに仏領インドシナと呼ばれる支配地域が形成され、20世紀初頭にハノイにその役割を渡すまで、サイゴンが仏領インドシナの「首都」としての役割を担った。

 

当時のサイゴンには 「嘉定(Gia Định)城」と呼ばれる城があったが、コーチシナ総督府、インドシナ総督府の設置に伴い、それは破壊されフランスによって新しい街づくりが行われた。折しも時は19世紀後半。本国パリではジョルジュ・オスマンによる「パリ改造」という大きなムーブメントが起きており、凱旋門から放射状の大通りの設置など、近代都市としてのパリの骨格が形成されていた。そしてその思想はインドシナ総督府が設置されたサイゴンにおいても適応される。街路樹で飾られた放射状の大通り、ランドアバウト…それらはオスマンの理想的な都市と見事に合致する。そうして、今のホーチミン市の骨格が形成された。

 

一方のハノイ。こちらは大変長い歴史を持つ。7世紀に唐が「安南都護府」を設置して以来、ベトナムの中心都市としての役割を担ってきた。百人一首にも選ばれる「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を詠んだ阿倍仲麻呂が一時期この安南都護府の長官を務めていた、という事実からもハノイの歴史の長さをおわかり頂けると思う。その後、李朝を興した李太祖(Lý Thái Tổ)がハノイ(タンロン)を都に定めたのが1010年。19世紀初頭には阮朝が首都をフエに移したこともあったが、ベトナムの中心都市としての位置づけは1300年以上の間変わらなかったと言ってもよい。

 

ハノイの街は当時のタンロン城を中心として発達し、今でも古い街区がそのまま残る。インドシナ総督府はサイゴンからハノイに移りその後(サイゴン時代よりも長い)43年間に渡ってその役割を果たしてきたが、ハノイはフランスにとってもtoo old to rebuild(再開発するには古すぎた)であったようで、今でもフレンチクォーターと呼ばれる地区はあるものの、それはあくまで一街区に留まり、中心部での都市の骨格は基本的には1000年の歴史を継続したものとなっている。

 

そして近年の目覚ましい経済成長と都市化。南のホーチミン市においては、新しいものをどんどん取り入れようとする南部人の気質もあってか、新たな開発が中心部において次々に進められている。そして、先に見てきたようにフランス統治時代の名残りによって特に中心部において都市の骨格がきちんと形成されているので、それを受け入れるだけの道路インフラが(今のところ)存在している、と言える。一方の北のハノイは、旧市街と呼ばれる中心部は基本的には手を付けないままで、郊外(ハノイの場合は特に西部)に新たな開発を促進させている。この手法は周辺国のバンコクやジャカルタ、マニラを見ても同様なので致し方なしとも言える。ただし、世界都市としてのアイデンティティの形成を考えると中心部が活性化した方が望ましいし、旧市街と新市街との間の交通はいずれにせよ発生するため、先に上げた周辺国の大都市のいずれも世界最悪の渋滞都市というレッテルを貼られている状況を鑑みても、都市計画上、必ずしも望ましくないのではという意見を私は持っている。

 

しかし、そうはいっても最近のホーチミン市の渋滞も酷い。そして中心部での開発の潮流は今後も暫く続くであろう。時間はかかってしまっているが、2020年開業目標のホーチミン都市鉄道1号線、そしてそれに続く他路線の整備はその渋滞緩和の大きな一助になることを確信している。つまり、都市のシンボルである中心部をより魅力的に活性化し、負の側面である渋滞を都市鉄道で軽減する、そして、その都市鉄道の整備によって中心部がさらに活性化される、というのがアジアの世界都市の生きる道ではないか、と考えている。

 

先の述べたオスマンによるパリ改造。ここで整備された道路網によってパリの都市としての防衛力が低下しそれがナチスによるパリ侵攻を招いた、という意見もあるように、何が正解かを語るのは難しい。ただ、誇れる都市は郊外における画一的な開発では生まれない。冒頭で述べた質問に自信と誇りを持って答えられる都市になるためには、その都市にしか存在しない資産を活かす整備・開発を進めるべきであるし、私も引き続きその形成に少しでも寄与できたら、と思っている。

多様性の中の統一

「多様性の中の統一(BHINNEKA TUNGGAL IKA)」。これはインドネシアの国是である。約18,000の島々、500以上の言語、イスラムを始めとする様々な宗教。これら全ての一つにまとめるにはその多様性を認めた上での統一を目指さないといけない。極めて理にかなった国是である。そのため、インドネシアにおいては、断食明けの休暇であるレバランもクリスマスも旧正月もヒンドゥのためのニュピもすべて祝日。そうして国民の多様性を尊重した上で国家を運営してきたのがインドネシアである。

 

一方、鉄道分野はそもそも多様性を認めにくい形態にある。鉄道は車両、軌道、信号、電力など様々なサブシステムの上に成り立つひとつの巨大なシステムであり、例えば車両で技術革新があっても、それがその他のサブシステムに与える影響を慎重に鑑みる必要がある。また、鉄道においては「効率性」も大事だが「安全性」がより重視される傾向にあるため、一分野の技術的な飛躍が全体のそれには結びつかない可能性がある。もちろん前進がないわけではないが、少なくともその技術的な摺合せ・確認に多少の時間をかける必要がでてくる。そのため、鉄道分野は多様性を重視するよりも既存の技術の延長を望む傾向にある。

 

それでは日本の鉄道技術を海外に出すときに「日本のをそのまま」で良いのか、という議論がある。効率や安全性の担保を考えれば、そのままパッケージで持っていったほうが良いのは火を見るより明らか。先程述べたように技術分野の部分的な最適解が全体の最適解とは限らないのが鉄道分野の難しさである。しかし、それを重視する余り日本のパッケージの押しつけになっていては思考停止である。現地の風土、文化、既存の技術や法律、当該地の鉄道分野の産業など、様々な要素を考慮して自らが知る技術を調整しながら現地に適応させることが求められている、と言える。それはまさに多様性の中の統一作業だ。

 

多様性を保ったまま統一させるのは本当に大変であると思う。統一を効率的に目指すのであれば技術や思想を単一にしたほうが楽である。しかし、生物の歴史を振り返ってみても、性が誕生し血液型が生まれたのは多様性が無いと種の保存という意味で極めて脆弱であったから、と考えられている。日本の鉄道業界もここで多様性を鑑みた上で統一する努力を怠ると一気に絶滅危惧種になってしまうのではなかろうか。道は険しいが、その一助となるようにこれからも励みたい。

HとH、HとS。

前回の投稿に対する皆様のスルーっぷりが自分的にある程度堪えており、年末のバタバタもあって今月の投稿はスキップしようと弱腰になっていたが、こういうのは一度甘えてサボってしまうと二度と軌道に戻らない、と、一念発起してこうしてこの文章を書いている。

 

私は鉄道技術者(の端くれ)であり、ベトナムに長く住んでいる人間である。やはりそういうバックグラウンドに基づいた投稿を皆期待しており、そうでないといとも容易くスルーされてしまう事が前回の件を通じてわかった。「【こんこん】の生みの親は私である」なんていう黒歴史、そもそも誰も聞きたくなかったのだ。

 

それを踏まえて、今回はハノイとホーチミン市について。

 

私が現在住んでいるのはホーチミン市であるが、2005年にはハノイに住んでいたことがあり、2011年から2015年まではほぼ毎月2週間ホーチミン市からハノイへ出張で行っていた。私が2011年からハノイで行った仕事は、彼の地における都市鉄道運営会社設立支援の案件であり、これを通じてHanoi Metro Companyが2014年に設立された。日本の都市鉄道支援という点では、ホーチミン市はハノイよりも先行していたが、ハノイにおいては中国が支援する路線の整備が先行しており、この開業がホーチミン1号線より先になると見込まれたことから、その運営会社の設立もハノイのほうが先に行われた。

 

ハノイにおける鉄道運営会社の名称(愛称)は「ハノイメトロ」となった。ベトナムでは他の東南アジア諸国で広く使われているMRTという言葉がいまいち根付かず、フランスの影響かメトロという言葉が市民の間では一般的であったこと、ハノイの会社設立支援は東京メトロが中心となって行ったこと、から、この名前はすんなり決まった。

 

ところが難航しているのがホーチミン市である。ハノイの場合は、中国支援の2A号線、フランス支援の3号線、そして日本支援の2号線が整備に向けて具体的に動いている路線であるが、ハノイメトロがこれら全ての路線を運営する、ということで我々の活動を通じて政府の承諾を得ていた(この承諾を得るのにも一苦労であったが、それは別の機会に)。一方ホーチミン市においては、日本支援の1号線とドイツ支援の2号線が具体的な案件であるが、1号線を運営する会社がドイツ支援の2号線も運営するかは明確に決まったわけではなかった。そこで、ホーチミン市に設立が予定されている会社の登録名は "Ho Chi Minh City Urban Railway Company 1 (HURC1)"という何とも野暮ったい名前になってしまった。愛称もまだ付いていない。

 

私は、これを「サイゴンメトロ」と呼んでほしいと願っている。しかし、ホーチミン市鉄道局副局長にこの話をすると「サイゴンは政治的にセンシティブだからな」と本音を語ってくれた。そう、「サイゴン」は政治的にセンシティブなのである。

 

「サイゴンツーリスト」や「サイゴンビア」など、サイゴンというホーチミン市の旧名を目にする機会は多い。ホーチミン市のタンソンニャット国際空港のコードはSGN、今だにサイゴンである。しかし、言わずもがな、元々南ベトナムの首都としてサイゴンと呼ばれていたこの都市は、サイゴン「解放」によってそれまで敵対していた国の盟主であった人物の名前を冠した市名、つまりホーチミン市に改名された歴史がある。元々の南の住民にとっても、北から来た政府の人間にとっても「サイゴン」と言う名前はそれぞれの意味でセンシティブなのである。そうはいっても、市民に愛される都市鉄道、その呼称は極めて重要である。それがHURC1だと誰も呼んでくれない。「タンホー(市の意味)ホーチミンメトロ」は呼称としては長い。Hメトロなんてアイディアも出るかもしれないが、Hanoiの"H"とHo Chi Minh Cityの"H"は被っているのである。

 

会社の正式名称と愛称は異なっていてももちろん問題ない。愛称は今後開業が近くなるにつれて具体的に決める必要が出てくると思うが、私は是非「サイゴンメトロ」を実現させたいと切に願っている。なぜならサイゴンは市民皆に愛されるべき呼称であり、未来に残しておくべき名前であるから。

私のアイドル

これまで3回に渡ってここでブログを書いてきた。改めて読み返すとどうも全て肩に力が入った堅苦しい内容のものになっている。元来私はもう少しおちゃらけた人間である。今回は少し趣向を変えて、表題の件について論じていきたい。

 

これまでの人生において、目標、や、近づきたい人、という意味ではなく、女性有名人に対しての私の「アイドル」は誰だったかと考えてみた。いわゆる「団塊ジュニア世代」に属する私は、アイドル全盛であった80年代を思春期として過ごしてきた。やはりそうなると王道としては小泉今日子か。可愛いと思うし歌も好きだったがそこまでハマってはいなかった。斉藤由貴あるいは南野陽子か。スケバン刑事は毎週欠かさず見ていたがタイプとは違った。菊池桃子か。今思うと可愛かったが当時は菊池桃子ファンだというのは憚られる雰囲気があった。私の周りだけかもしれないが。酒井法子か。これも可愛かったがやや人工的な印象を受けた。渡辺満里奈か。当時圧倒的な可愛いさはあったがおニャン子にはそれほど熱くなれなかった。宮沢りえあるいは広末涼子か。少し年代がずれる。

 

熟考の結果、当時のイチオシは奇しくも今高校生のダンスで脚光を浴びている荻野目洋子ではなかったか、と気が付いた。恥ずかしくて部屋に女性芸能人のポスターを飾るような事はできない少年時代であったが、お茶の間のTVから流れる荻野目洋子の活動的、ボーイッシュなイメージに惹かれていたと思う。ただ、CDを買ったり、コンサートに行ったりはできなかった。なにせシャイなので。

 

そしてもうひとりの芸能人の名前が浮かんできた。奥貫薫。これは彼女自身というよりも、88年のKDDのCM、そしてその中でかかる中島みゆきの名曲「あした」にやれてたという面が強い。

 

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今見てももらい泣きしてしまいそうな名作。15秒の間にこれほど人の感情を揺さぶることが出来るCMの世界に一時期は強く惹かれていたことも事実である。

 

結局大学では都市計画を専攻し、そして自由な大学院時代。私は「モーニング娘。」にハマっていた。いわゆるモーヲタである。誰かが特定のメンバーが好きだったというわけではなく、冴えなかった(失礼)女の子達が解散をちらつかされながら必死に売上を重ねていき、国民的アイドルまでのし上がったというストーリーに惹かれていた部分が強い。紺野あさ美というメンバーが入った際に、当時の2ちゃんのスレで「こんこん」というあだ名とo・-・)という顔文字を積極的に使い定着させたのは何を隠そうこの私であった。Googleで「こんこん」と検索するとo・-・)がトップに出るように当時の2ちゃん住民と色々工夫を重ねたのも懐かしい思い出である。研究室の後輩と横浜アリーナのコンサートへ行き、周りの観客とともにジャンブながら「じゃんけんぽん!」と叫んでいる自分を冷静に見つめ直した時はさすがに何をしているんだろう、と思わなくもなかったが。

 

というわけで、「私のアイドル」は80年代アイドル全盛期の頃は思春期でありながらそれほど強く特定の人間を支援していたわけではなくて、結局20代、それも後半になってからの「モーニング娘。」ということになろうか。今はジャカルタ出張時にたまにJKT48を見に行くぐらい。

ホーチミン都市鉄道1号線に込めた思い(1)

関係者全員の力でこの案件を実施までこぎつけることができたのは、その内の1人である私の30代におけるキャリアの最大の成果だと自負している。もちろん課題はある。まだ開業していない。昨今はベトナム政府からの支払いがかなり遅延して大きな問題となっているようだ。しかし、もう工事は始まっている。何年後になるかはともかくあと数年で開業するであろう。2002年からのマスタープランでの案件提案、そして2005年から案件形成に携わり、2007年には両政府の合意が得られたホーチミン都市鉄道1号線。案件形成当時、この路線に込めた思いを明文化したい。今回は主に路線計画に関するものを取り上げる。

 

なぜホーチミン1号線は市の中心から北東方面に伸びているのか

ホーチミン市における都市鉄道のマスタープランならびに具体的な整備計画は、我々が行った2002-2004年のJICA調査での提案が最初というわけではなかった。当時最も具体的であったのがドイツ・ドレスデン大学の提案で、市の中心であるベンタン市場から北西に1路線、南西に1路線の2路線の整備が計画されていた。我々JICA調査では、この2路線と重複しない路線計画をプレFS(フィジビリティスタディ)の案件として採択してくれという市側の意向を受け、ベンタンから北東方面の路線(今の都市鉄道1号線)をその対象とした。その後、ドイツの提案は1路線に集中し、現在の都市鉄道2号線(ベンタン-タムルオン)への取り組みと続いている。

 

当時、ホーチミン市の街の形成は市中心部東を流れるサイゴン川による発展の阻害によって、自然の趨勢として西側に広がっていた。逆に言うと、市の東側は中心部から近いにも関わらず発展が遅れており、私はここに一つの可能性を見出した。つまり、オートバイクが交通機関分担率の8割以上を占めるホーチミン市において、ただ単に既成市街地に都市鉄道を整備しても(短距離であれば特に)オートバイクの利便性に鉄道が打ち勝てる可能性は低い。そうであるならば、都市開発と鉄道整備を一体型で行い、駅から歩ける範囲に商業・住宅開発を高度に集積させるべきでは、そして市の中心であるベンタンと、まだ都市開発の余地がある市北東方面を軌道系公共交通で結べばその理想に近づけるのでは、と思ったのである。かつ、そういった都市と鉄道の一体型開発はまさに日本のお家芸。阪急電鉄の創始者小林一三が始めたビジネスモデル、いわゆるTOD(Transit Oriented Development)である。

 

通常JICA調査で実施するプレFSの案件は、それを強力に実施までもっていこうとする動きがないと計画だけ作って終わってしまう。私は、この案件に可能性を感じ、これを実施まで漕ぎ着けようと動いた海外鉄道技術協力協会(JARTS)のTさん(故人)とともに経済産業省の方々を巻き込んで案件の実現に奔走した。それが2005-2006年、その後そのJARTSに声をかけていただいて、元々いた民間開発コンサルから2007年に転職することにした。

 

なぜホーチミン1号線はサイゴン川の際を通過しているのか

我々が1号線の線形を再検討していた際、当時軍港であったバソン港が近く郊外に移転する、という情報が入ってきた。市中心部に直近で20haもの土地が丸々空く。こんなに美味しい話はない。港湾跡地の鉄道整備を伴う再開発。私はすぐに横浜みなとみらい地区を想起した。このバソン港跡地にみなとみらい駅とクイーンズスクエアのような連結した商業開発が出来れば、鉄道利用者は増えると確信した。まだ当時はベトナム防衛省と市との土地の引き渡しに関する話し合いは決着していなかったが、100年の都市づくりを考えると、ここに駅をおかない手はない。そして、この空いた土地を使って地下から高架に移行する区間を設置するために、できるだけ開発の余地を残す事を目的として、鉄道予定地はできるだけ川側に寄せた。地下から高架への移行区間が開発予定地の真ん中を通ってしまうと地区の分断となってしまうことを懸念したためである。個人的には、日本のディベロッパーがみなとみらいの経験を活かしてバソンの再開発も行って欲しいと思っていたが、残念ながらベトナム企業のVinグループが政治力を使ってこの開発権を得た。この地区の開発を行っているVinグループは、私に金一封でも包むべきだと思っている(笑)

 

なぜホーチミン1号線は公園内に駅があるのか

バソン港跡地で地下から高架に上がると、ベンタン側から最初の高架駅がバンタン公園駅になる。このバンタン公園は知る人ぞ知るホーチミンの都会のオアシス。敷地内の池の畔にレストランが有り、熱帯の都会ホーチミンの真ん中で自然の涼を取ることが出来る貴重な場所である。私はここに駅を置くことを主張した。もちろん、他の駅予定地に比べると旅客需要は少ないし、開発の余地も小さい。しかし、均一的になりがちな駅周辺開発で、ここは都心にありながら自然が残る地区。必ずこの特徴が路線全体の価値を高めると信じた。そして、湖面脇を横切るように線形を引いた。開通後は湖上と湖面に映る電車をレストランから撮影できるのでは、と考えたためである。今で言う「インスタ映え」に該当するかもしれない。もちろんまだ開通していないので検証はできていないが、そうなったら楽しいし、市民に愛される鉄道になるのでは、と言う期待も込めた。

 

なぜホーチミン1号線はスオイティエンが終点なのか

 小林一三の思想は極めてシンプルである。都市鉄道は片方向ピーク時の輸送量に合わせてインフラ全体の整備を行わないといけない。仮に片方向ピーク時の需要が他に比べて特に先鋭していれば、反対方向、オフピーク時は逆に需要に対して供給が多すぎる事となる。つまり、いかに方向、時間帯、曜日で需要を平準化するかが鉄道経営の肝となる。そのために、小林一三は郊外の終点側に「宝塚新温泉(のちの宝塚ファミリーランド)」、そしてその中に「宝塚歌劇団」を設営し、休日逆方向の需要を創生することを試みた。

 

翻ってホーチミン1号線沿線を見ると、既であるはないか。スオイティエンウォーターパークが。「狂ったディズニーランド」という不名誉なあだ名もあるスオイティエンウォーターパークは、地元市民に愛され集客力もある立派な遊園地である。当初のプレFSでは、ベンタンから北東方面にThu Ducまでの14kmの整備を計画していたが、計画見直しの際に私はこれをスオイティエンまで延ばす事にこだわった。もちろん延長した沿線にサイゴンハイテクパークや大学群が整備・計画されていることも決め手となったが、スオイティエンウォーターパークを宝塚ファミリーランドと見做して健全な鉄道経営を目指したかったのが一番大きな理由である。

 

 

 

まとめ

 ホーチミン都市鉄道1号線は、市の中心部からまだ開発の余地が残っていた市の北東部を結ぶ路線で、途中にみなとみらいのようなバソン港があり、日比谷公園のようなバンタン公園があり、終点側に宝塚ファミリーランドのようなスオイティエンウォーターパークが存在している、日本の都市鉄道と極めて親和性の高い路線となっている。私が10年以上前に狙っていたとおり、現在、1号線沿線は民間資本による開発が目白押しで、これが利用者の確保、そして鉄道経営の助けとなってくれればと願っている。

私は何をしているのか

当初、数ヶ月に一度の更新をこのブログでは想定していたが、某氏の強い希望もあり月に一度のアップを目処としようと改めるようになった。そして、前回たまたま月最終日に上げたため、今後も出来る限り同時期に投稿したいと思う。

 

このブログは、いまのところ元々知り合いが殆どのfacebookや、多少の個人情報を披露しているTwitterでのリンクから読まれることが基本であるため、改めてかしこまって自己紹介をするまでもないという思いもある。一方で、後々にブログとして一本立ち(?)した際に、このhoso9999という男が何者かを記しておくのは悪くないのではないかとも感じこのエントリーを書くこととした(自分が他人のブログを読む際、「プロフイール」的なものをまずは読もうとするため)。

 

 私は現在ベトナムのホーチミン市に住んでいる。駐在として住居を置き住み始めたのは2007年からで、ホーチミン市のプロジェクトに関わりだしたのはその5年前の2002年から。2002年から2004年と2006年はほぼほぼホーチミン市で生活していたので、聞かれる人によってホーチミン市には10年住んでいる、あるいは15年住んでいる、と答えるようにしている。ちなみに2005年はハノイとマニラ、2007年はモンゴルのウランバートルにそれぞれ半年程度住んでいた。

 

仕事のカテゴリーで言うと「開発コンサルタント」と呼ばれる業種に属している。政府開発援助(ODA)による技術支援などを行う際の技術者として現地に派遣され当該業務を履行するのが私の仕事である。専門としては「交通計画」「鉄道計画」となる。この業界に入った当初は、交通計画の一部分である「需要予測」を主な担当業務としていた。当該都市における現在の交通状況を分析し、将来起こりうる状況を予測し、どのような交通インフラの整備を行うべきか、その交通インフラの整備による改善効果を予測する担当である。その後、2007年に同業他社に転職したことに伴い、自分が係る案件が交通の中でもほぼ「鉄道」のみとなり、それから10年間は鉄道案件に関わるソフト分野を担当するようになった。需要予測を始めとする交通計画全般に限らず、財務や法務なども。補助する立場であるが、新たに作る都市鉄道の乗務員の運転免許証をどうするか、のような検討も長い間行ってきた(今でも行っている)。簡単に言うと「鉄道案件において他の鉄道技術者がやらないことをする何でも屋」という位置づけである。そして、専門家としてのみならず、ベトナム事務所を預かる立場として、営業活動や実施中の案件の問題解決補助(と言う名の尻拭い)も行っているのが現状である。

 

ずっと長く関わってきた案件は現在建設中の「ホーチミン都市鉄道1号線(Ben Thanh- Suoi Tien)」である。2002年に開発コンサルタントになって初めて関わった計画策定調査で提案したのがこの路線で、それ以来この案件形成ならびに案件の実施にもう15年も関わっている。この案件については別途エントリーを設けたいと思う。そして、2014年からはインドネシア事務所も預かる立場となり、ジャカルタで現在建設中の「ジャカルタMRT南北線第一期」に専門家としても深く携わっている。2017年9月現在、このジャカルタの案件が自分のメインタスクとなっている。

 

このような状況なので、月の内半分をハノイ含めたベトナムで、半分をジャカルタで過ごす生活をかれこれ2年近く繰り返している。シンチャオとスラマッパギを繰り返す日々。これが私がしていること。ベトナムとインドネシアの文化の違い、ベトナム国の首都であるハノイと経済の中心ホーチミン市の違いについても、また後日触れたいと思う。