ピンチはチャンス

やもすると使い古されて陳腐に聞こえてしまいがちなこの言葉であるが、今回のエントリーではこの言葉を下敷きに私の18年間の子育て奮闘史について語りたい。

 

私の妻はフィリピン出身であり、2003年に生まれた息子は日本人とフィリピン人のハーフということになる。今でこそ芸能人(池田エライザや中島健人など)やスポーツ選手(高安など)で活躍している人も多いが、日本においてフィリピン人とのハーフに対して全員が必ずしも良い印象を持たないかも知れず、特に子供は残酷なので、学校でいじめの対象にあったらどうしよう、という懸念が正直当時強くあった。また、私の仕事は基本海外での案件に従事をしないとお金をもらえない業態なので、親族や友達がいない妻を一人日本において息子の面倒を見てもらい私は日本以外の国々で稼ぎたまに日本に帰って家族と会う、ということは困難なんだろう、と考えていた。そこで私は、息子が4歳になるタイミングでお声掛けを頂いた会社に転職し、ベトナム・ホーチミン市に活動のベースを落ち着かせることが出来るようになった。

 

息子がまだ小さい頃は、私は息子に対して日本語で話し、妻は(日本語がほとんど喋れない事もあり)英語で話をしていた。保育園での会話も英語だし、だんだん高度な内容になってくると息子の日本語での会話の組み立てが困難になり、私の日本語での問いかけに対して英語で返してくるようになった。そうなると私からの問いかけもついつい英語になり、結果として彼の第一言語は英語となった。小学校にあがる際に土曜日午前中のみ授業を行う日本人補習校に入れることも選択肢としてあったが、保育園・幼稚園からの流れもありシンガポール系のインターナショナルスクールに通わせていて宿題の量がとても多かったので、それにプラスして補習校からの宿題も出るのは可愛そうだな、と補習校に通わせることは選択しなかった。「日本国籍だけど日本語喋れない問題」については、彼が大学に進学した後に自分で学習する必要があると感じたらすれば良い、と考えた。ちなみに、ホーチミン市においては、アメリカ系、イギリス系、オーストラリア系、カナダ系などなど色んな国のインターナショナルスクールが存在していて、シンガポール系のそれを選択したのは、数学が出来る出来ないが彼の人生の選択肢に大きく影響をすると考え、まだ学齢が低い間はアジア式の詰め込み教育のほうが良いのでは、と思ったためである。

 

シンガポールインターナショナルスクール(SIS)での教育は満足しているが、とにかく宿題が多かった思い出である。当時は私自身ハノイへの出張が月の半分を占めていたのであるが、息子から送られてくる算数の問題をホテル備え付けのメモに回答を手書きし、それを写メして息子に送り返す夜を何度過ごしたことか。酔っ払ってホテルの部屋に戻った夜にも、SISからの算数の宿題は残酷にも山のようにあり、涙目になりながら数字と格闘した日々は今となっては懐かしい。息子へのこれまでの教育で唯一の誤算があったとすれば、ここで息子は数学に対して半ばトラウマになってしまったようで、数学嫌いが板についてしまったことか。

 

私がホーチミン市で住んでいるのは7区というところであるが、ここにサイゴンサウスインターナショナルスクール(SSIS)というアメリカ系の学校がある。アメリカの大学への進学を第一に考えているのであればやはり高校もアメリカ系のに行かせたほうが良いだろうという考えのもと、高校の4年間、8年生になるタイミングでSSISへ編入する事を選んだ。SSISはアメリカ国籍を持つ家族の子供と裕福な家庭のベトナム人が多い学校で、韓国人も比較的多いのが特徴だ。明確な統計で比較したわけではないが、アメリカの大学への進学でいうとベトナムのインターナショナルスクールの中では間違いなくトップ校の一つであろう。編入するのも容易ではないようだが、息子はなんとかこれに合格し、良い意味でも悪い意味でもアメリカの文化により染まっていくことになる。

 

シンガポール系での初等教育を受けたのだからアメリカ系の数学なんて楽勝でしょう、と親の私は勝手に思っていたが、先述のトラウマのせいか元々の彼の資質・性格かはわからないものの、結果的にさほど伸びなかった一方で、英語の成績はいつも良くて、大学に提出するSATの成績も上位2%の点数を得ることが出来たようだ。結果として、アメリカの大学を5校受けてうち3校に合格し、21年9月よりカリフォルニア大学アーバイン校(UC Irvine)に進学することとなった。専攻としては親が元々期待していた理系ではなく社会科学系を選んだのであるが、それは彼自身の選択なので親の私は何も言わずにそれを全力で支えていこうと思っている。

 

いじめられるかも知れない、という気持ちからスタートした彼への教育、世界大学ランキングでも100位以内のアメリカの大学に進学させることが出来、いまのところ胸を張って生きていける道を歩ませている自負はある。私自身の選択で非日本人と結婚し日本ではないところで生活をしたので、それが理由で息子に不自由を与える事がないように知恵をめぐらし選択・投資を行ってきた。ピンチをチャンスと捉えて。アメリカの大学は学費が非常に高く留学生への奨学金は非常に限られている一方、特に近年生活費もどんどん上がっているので今後に懸念がないわけではないが、無事に卒業をさせてあげることが出来るように父親の私は自分の仕事を引き続き頑張るのみである。