フィリピンと私。

このブログでの過去の投稿を読み直してみると、これまでフィリピンについては一切触れていないことに改めて気付いた。意図的にそうしたわけではないのだが、結果的にそうなっているので、そういう心理でもあったのであろう。今回のエントリーでは、ベトナムよりもインドネシアよりも実は付き合いが長い、フィリピンとの関係について(意を決して)触れたいと思う。

 

初めてマニラのニノイ・アキノ国際空港に降り立ったのは、1996年5月。タラップから伝わるむーんとした熱気を昨日のことのように覚えている。今になってググってみると、森くんがSMAPからの脱退をした月だったようだ。私はと言えば、当時23歳。北関東の某国立大学の修士課程を休学して、フィリピン大学大学院への進学を決意した年であった。遡ることそれから4年前に初めての海外旅行として訪れたタイ・バンコクの交通渋滞の酷さに衝撃を受け、かつ途上国大都市に人口が増え続ける未来が確実に来ることを大学の講義で知り、将来はそのような交通問題の解決に寄与できうる仕事に就きたいと思っていた当時の私。発展途上国の現場をまさに自分の生活の中で感じる事ができ、かつ英語も喋れるようになることを期待して、フィリピン随一の難関大学であるフィリピン大学ディリマン校の大学院を受験し、晴れて合格、進学できる運びとなった。私が選んだコースは「都市地域計画学研究科」。もちろんその研究科では私が最初の日本人留学生であった。

 

 今でこそフィリピンで英語留学をすることはさほど特別なことではない風潮があるが、20年前は「フィリピンに関わるのはヤクザか水商売」のような世間のイメージがあったことも事実である。実際に、当時の成田発マニラ行きの飛行機には、普通ではない風貌の方々が少なからず搭乗していたことを記憶している。そんな中、彼の地で留学することを決断した私も若かったといえば若かったし、それを大した反対もせず許してくれた両親に改めて感謝したい。

 

それから2年弱の間にフィリピンで経験したこと全てを一つのエントリーで述べるのは難しい。とにかく読まされた数々の英語の本。ジプニーを乗り継いで訪れた街角。優秀な現地大学生や日本人留学生、大学に派遣されていた日本人教授やJICA専門家、ADB職員との交流。アルバイトとして参画する機会を得たJICA開発調査。そして、当時お付き合いしていた日本人女性との別れと、今の妻との出会い。まさに今の私の原点とも言えるのが1996年から97年のマニラであった。東南アジアで唯一の「ラテン国家」フィリピン。今でもサンミゲルとシシグを見ると、若かったあの頃の熱い想いがこみ上げてくる。

 

その後フィリピンに関する研究を続けることを前提に日本に戻って博士課程に進学し、修了後マニラでのバイトが縁で開発コンサルに。ところが、仕事でフィリピンの案件に関わったのは2005年の一度きり。避けているわけではないのだが、何故だか縁がない。

 

先日ご一緒した京都大学の先生が、私のことを「グローバル人材という言葉が存在する前からのグローバル人材」と学生さんに紹介してくださった。確かに道を切り開いてきたという自負もある。しかし、まだお世話になった方々に恩返しし切れたとは言い難い。96年のマニラでの想いをこれからも、一つ一つの案件を着実にこなしていくことで実現させていきたい、と思う。