記憶の線香花火

ブログをお読みの皆さんにも似たような体験があるか定かではないが、私には、これまで住んだことや行ったことがある特定の街並みの記憶が突然強烈にフラッシュバックすることがたまにある。京都・福知山での小学校や中学、高校での登下校の街並みが出てくることが多いのだが、近頃は、つくばでの大学時代そして大学院のときのマニラの思い出も時に現れるようになった。

 

私はこれを「記憶の線香花火」と呼んでいる。線香花火が最後火花を大きくしてそして落ちていく現象に似ているのではないかと考えているからだ。あたかも線香花火のように、失われていく記憶が最後無くなってしまう前にその存在をアピールしている、というもの。すなわち、この現象が起きた記憶たちは一旦強烈にでてくるもの、それを境に次第に弱くそしていずれ無くなってしまうのでは、というのが私の仮説である。

 

最近この現象にモンゴル・ウランバートルの街並みが加わるようになった。フィリピン、ベトナム、そしてインドネシアが私にとっての「第*のふるさと」であることには代わりはないが、2007年に半年住んだモンゴル・ウランバートルも強烈に印象に残っている国・街である。博士号を取得して半年大学で働いたあと本格的に就職した最初のコンサル会社での最後の案件となったのがウランバートルでのこの業務であった。モンゴル国で史上最初となる「パーソントリップ調査」を企画・実施監督し、交通需要予測モデルをほぼ一人で作って後任にバトンタッチ。それまでの仕事の集大成のような業務だったので記憶にも強く残っているし、そもそもモンゴル・ウランバートルという特異な場所での生活はとても印象的なものであった。

 

当時唯一のショッピングモールと呼んで良かったノミンデパートでの買い物、スフバートル広場でのひととき、ソウルストリートでの食事。借りていたアパートで皆で作ったモンゴル餃子・ボーズやホーショール。そして郊外のテレルジでの乗馬やキャンプ。凍り付くテール川での釣り。荒野を四駆車でひたすら走り、ゲルに泊まって満天の星の下で食べた羊料理…仕事での滞在とはいえ普段の生活では体験できないことを色々させていただいた。

 

こういった記憶が最近「線香花火」の対象になってしまっている。2007年の件の調査で提案した地下鉄整備も途中モンゴル国自体の経済危機などもあって10年以上経った今も未だ実施まで至っていない様だ。記憶の火花が完全に落ちてしまう前にもう一度訪れたい街、それがモンゴル・ウランバートルである。

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インドネシアのGitu、フィリピンのDiba、ベトナムのTroi oi

2018年最後のこのエントリーでは、言語学や比較文化学の専門家でも何でもない私が、主にインドネシア、フィリピン、ベトナムの3つの国に住んでみて気がついた彼らの口癖と、その背景にあるのではないかと感じられる文化や風習について触れたいと思う。

 

インドネシア(ジャカルタ)で良く聞く口癖が Gituである。これは、Begituの省略形で、英語にすると文の終わりに付く...,like thatという風に聞こえる。日本語にするのが難しいが、少し前の言い方だと「って感じ」になろうか。インドネシアの人たちは一般的に自己主張が強くなく自分の意見を周囲に合わせる傾向にある。「空気を読む」とでも言うのか。Gituが文の最後に付く場合には、自分の意見を言うときに、その主張が強い印象を与えないために「って感じ」と柔らかく締めくくる感じだ。

 

フィリピン人が良く使う言葉の一等賞はDi baではないだろうか。英語の文法でいうと付加疑問文、日本語では「でしょ?」に該当する。フィリピン人は自分の主張を正当化する事が周辺国と比べてやや多い傾向にあるように感じる。主張はするが自分が信じていれば良い個人主義ではなく、その主張は周りからの賛同も得たい。西洋と東洋の両方の文化を有しているのがフィリピンであると私は考える。そう言った文化的バックグラウンドが、彼らの会話の中で頻繁に使われるDi baに出ているのではないだろうか。

 

ベトナムでは、Trời ơiがやはり挙げられると思う。英語にすると文字通りOh my God!だ。ただし、英語でのOh my Godは驚嘆に使われるのが多いと思われるのに対して、ベトナム人のTrời ơiは主に感嘆に使われている印象だ。神様助けて下さい!よりも、神様どうにかしてよ!という他人である天に責任をやや押し付けるニュアンスをTrời ơiには感じる。生活での不満や不安は自省で落ち込まずに天への愚痴でやり過ごす。厳しい環境で育ってきたベトナム人の生活の知恵であるとも言える。

 

主張を強めないインドネシア人、主張に同意を求めるフィリピン人、そして天に愚痴を言うベトナム人。同じ東南アジアでも文化も風習も大きく異なる。これらの地への日本の鉄道システムの輸出は、Gituで行くべきか、Dibaで行くべきか。最後にTrời ơiと嘆かないようにはしたいとは思う。

計画・実施と内科・外科

大きく整理すると、開発コンサルとして最初に入社した会社は交通計画が得意であり、今いる会社は鉄道整備の実施(のコンサル)が出来る企業である。どちらが尊いか、という話ではなくて、同じ交通インフラを対象としていてもそのアプローチは全く異なる、というのが今回のエントリーの趣旨。

 

鉄道のような交通インフラ整備は、大きく「計画」と「実施」の二段階に分けられる。

 

「計画」段階では、当該都市の現状の交通問題点を把握し、将来の都市像を想像し、将来起こりうる交通問題を検討し、それを解決するためにどのようなインフラが必要が、それがいつどのように整備されるのがふさわしいかを提言する、のが仕事である。結果として鉄道が必要という提案にもなりうるし、BRTでよい、あるいは交通管理で対応可能、という政策メニューを提示することになる。都市のマスタープラン作成のような大規模な案件になれば、大規模な交通調査(例えばパーソントリップ調査など)を実施して、現状の問題を包括的に把握することに努める。その作業はまるで、健康診断を受けた患者に対して、何が問題で、このまま放置するとどのような健康被害が起こりうるか、そのために必要な処置は何かを検討し提言する内科医の姿にも重なる。インフラ整備というお金がかかる手術が必要だと思われればそれを提案するし、薬の処方で十分なケースもある。

 

一方の「実施」はまさに外科医の仕事に近い。建設や調達、運営維持管理の体制づくりの現場は文字通り「切った張った」の世界である。日々色んなことが起こる。鉄道インフラづくりにおける各分野との調整というのは、針の穴を通すような繊細なコントロールで皆を唸らせる剛速球を投げないと抑えられない場面がいくつもある。じっくり腰を据えて分析して考える能力よりも、起こった状況に対していかに最適な判断を下すか、知的な反射神経が問われる場面が多い。もちろんその一つ一つの判断を下すためには十分な知識と経験が不可欠である。失敗したら文字通り命にも関わる重要な判断にもなりうる緊張感と責任感は半端ない。

 

知的パズルのような「計画」も捨てがたいが、私は血が燃える「実施」に個人的にやりがいを感じる。そして、特にホーチミン1号線については計画段階から関わっているので、その成果に対する責任感はとても大きいものである。この案件は、ベトナム国家としての予算の問題でいま大変難しいところにいるが、将来確実に起こる交通渋滞の悪化に対して市の中心部に地下鉄を通すという「バイパス手術」を行っているわけだ。多少血が出てもおかしくない。この手術が無事に成功し、ホーチミン市が将来も健全に活動を行う状況を確保できるよう、これからも自分が出来ることに努めようと思う。

フィリピンと私。

このブログでの過去の投稿を読み直してみると、これまでフィリピンについては一切触れていないことに改めて気付いた。意図的にそうしたわけではないのだが、結果的にそうなっているので、そういう心理でもあったのであろう。今回のエントリーでは、ベトナムよりもインドネシアよりも実は付き合いが長い、フィリピンとの関係について(意を決して)触れたいと思う。

 

初めてマニラのニノイ・アキノ国際空港に降り立ったのは、1996年5月。タラップから伝わるむーんとした熱気を昨日のことのように覚えている。今になってググってみると、森くんがSMAPからの脱退をした月だったようだ。私はと言えば、当時23歳。北関東の某国立大学の修士課程を休学して、フィリピン大学大学院への進学を決意した年であった。遡ることそれから4年前に初めての海外旅行として訪れたタイ・バンコクの交通渋滞の酷さに衝撃を受け、かつ途上国大都市に人口が増え続ける未来が確実に来ることを大学の講義で知り、将来はそのような交通問題の解決に寄与できうる仕事に就きたいと思っていた当時の私。発展途上国の現場をまさに自分の生活の中で感じる事ができ、かつ英語も喋れるようになることを期待して、フィリピン随一の難関大学であるフィリピン大学ディリマン校の大学院を受験し、晴れて合格、進学できる運びとなった。私が選んだコースは「都市地域計画学研究科」。もちろんその研究科では私が最初の日本人留学生であった。

 

 今でこそフィリピンで英語留学をすることはさほど特別なことではない風潮があるが、20年前は「フィリピンに関わるのはヤクザか水商売」のような世間のイメージがあったことも事実である。実際に、当時の成田発マニラ行きの飛行機には、普通ではない風貌の方々が少なからず搭乗していたことを記憶している。そんな中、彼の地で留学することを決断した私も若かったといえば若かったし、それを大した反対もせず許してくれた両親に改めて感謝したい。

 

それから2年弱の間にフィリピンで経験したこと全てを一つのエントリーで述べるのは難しい。とにかく読まされた数々の英語の本。ジプニーを乗り継いで訪れた街角。優秀な現地大学生や日本人留学生、大学に派遣されていた日本人教授やJICA専門家、ADB職員との交流。アルバイトとして参画する機会を得たJICA開発調査。そして、当時お付き合いしていた日本人女性との別れと、今の妻との出会い。まさに今の私の原点とも言えるのが1996年から97年のマニラであった。東南アジアで唯一の「ラテン国家」フィリピン。今でもサンミゲルとシシグを見ると、若かったあの頃の熱い想いがこみ上げてくる。

 

その後フィリピンに関する研究を続けることを前提に日本に戻って博士課程に進学し、修了後マニラでのバイトが縁で開発コンサルに。ところが、仕事でフィリピンの案件に関わったのは2005年の一度きり。避けているわけではないのだが、何故だか縁がない。

 

先日ご一緒した京都大学の先生が、私のことを「グローバル人材という言葉が存在する前からのグローバル人材」と学生さんに紹介してくださった。確かに道を切り開いてきたという自負もある。しかし、まだお世話になった方々に恩返しし切れたとは言い難い。96年のマニラでの想いをこれからも、一つ一つの案件を着実にこなしていくことで実現させていきたい、と思う。

ベトナムマンション購入顛末記(2)

前回の続き)

 

「こちらの瑕疵で契約を破棄するものなので、契約で記載されている条項に従って、お預かりしたお金をお戻し、かつ別途違約金を支払います」というのが先方のディベロッパーの言い分。そして言われるがままに「契約破棄合意書」にサインをさせられる私。それが2011年12月のことだ。しかし問題は、その預かったお金と違約金の支払いが「いつまでに」行われる、というのがその合意書には明確に書いてなかったことであった。

 

先方は、おそらく銀行からの貸しはがしに被い、今後工事を進めていく資金がどうしても足りずに泣く泣く契約不履行となったのであろう。だから、そもそも余分なお金なんて1ドンたりとも無いのである。つまり、契約を破棄して返金に両者合意をしても、「お預かりしたお金」なんてとっくに工事に回してこの世には存在しないのだ。同情はするがそれはそれ。親からの借金含めて全財産を預けた身としては、彼らからの返金が文字通りの生命線である。そして借金取りになる私。週に1度は担当者に連絡を取り、どうなっているのか確認する日々が始まった。向こうは「現在懸命に資金繰りをしている」の一点張り。そしてまんじりと4ヶ月が過ぎたある日、突然先方から連絡が入り、すぐに事務所に来てくれ、と。

 

先方から出た話は、「銀行からある一定のお金を得ることが出来た。あなたは毎週のように連絡をしてきたので優先的にお返ししたい。ただ、合意書で約束した金額のうち、預かった分はお返しすることが出来るが、違約金に該当する部分をどうしてもお支払いすることが出来ない。それで同意してくれれば今日にでも支払う。あなたに合意いただかなければ、同じ提案で合意してくれる他の客を優先せざるを得ない」。違約金には利子に該当する金額もあったので、こちらの概算で約100万円。100万円を諦めて今日ケリをつけるか、100万円を求めてさらに粘るか。しばし思案する私。そして出した決断は…「わかった。それでいいから今日支払ってくれ」。

 

そしてその日のうちに約束の額は振り込まれた。その後、返金があること前提で既に手続きを進めていた、ホーチミン南部最大手ディベロッパーによる別の分譲マンション(竣工済み)の契約を締結し、2012月5月、私はベトナム・ホーチミン市にて無事にマンションを購入することが出来た。

 

今でもたまに思う。2012年4月のあの日、100万円を惜しんでその日の支払いを受けていなかったらどうなっていただろうか。もしかしたら会社自体が倒産し、100万円どころか全額返金を受けることがなかったかもしれない。そうなっていたら私の人生も変わっていたかも。2018年8月現在、私が買う予定だったマンションの工事は未だ止まっており、複数の高層棟はホーチミン市の郊外で墓標のように立ちすくんでいる。

 

【2011年10月の引渡し時】

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ベトナムマンション購入顛末記(1)

久しぶりのブログ更新となってしまった。今回のエントリは飲み会での鉄板ネタなのだが、備忘録としてここに記載する事にする。

 

もう8年前の話になる。2010年。ホーチミンに正式に駐在となって3年目のことだ。今でもそうだが、当時も日本で預金をしても利子はほとんどつかない。一方、ベトナムの銀行で米ドルで預けると年率で4%前後の利子。日本で置いておくよりもこちらで(為替リスクの低い)米ドルで利子を稼いだほうが良い、と当時日本の銀行に預けてあった預金のほぼ全額をベトナムに送金し、米ドルで銀行に預けていた。

 

ところが、2011年だったか、ベトナム中央政府の政策の方針転換で、急に米ドルの銀行利子がほぼゼロとされてしまった。噂ではベトナム政府に米ドルが枯渇して市井の需要を下げたかったということがあったようだ。結果的にあるまとまったお金がベトナムにて宙に浮いてしまう形となった。日本に送金するか、為替リスクは高いがベトナムドンで銀行に預けるか、あるいは株でも買うか。色々悩んだ挙げ句、こちらで手頃な値段のマンションを買ってしまおう、と思うに至った。

 

賃貸に毎月払うのであれば、今その資金でマンションを買ってしまい、ベトナムから撤退となった際に同額程度で売れれば御の字、という気持ちであった。当時の不動産市況としては、リーマンショックまではプチバブルだったものの2008年以降は低迷し、銀行の不動産業者からの貸しはがしも行われてたようで、明らかに不動産価格は低水準であった。サラリーマンである以上いつベトナムから撤退するかもわからず、かつ外国人である私が銀行からお金を借りて不動産を買うことは難しいと考えていたので、手元資金を大きく超えることがないお手頃な物件を探していた。当時は、まだ外国人に完全に不動産購入の門戸を開いたわけではなかったが、特別な技能を有する外国人、というので博士号を持っていたことが功を奏したようで、購入する目処を立てることが出来た。

 

そして選んだのが建設中の物件A。驕奢なモデルルーム、魅力的なマスタープラン、イメージビデオに心を躍らされた。人気の区の際に立地しておりその区自体ではないこともあって、値段も届かなくはない範囲であった。建設中に全額支払えば完成後の値段よりも安くなりますよ。担当の甘い言葉についつい「割引後なら手持ち資金プラスアルファで買えるな」と算盤を弾いた。そして購入を決断し支払いを行ったのが2011年の5月。ちなみに、ディベロッパーから直接購入したわけではなく、ディベロッパーの仲介でベトナム人オーナーからの購入となった。そのオーナーが当時そこそこ名前のしれた歌手であったことも高揚感の一因となった。竣工予定が同年10月ということで、こちらはスケルトンで購入するのが一般的なので、独自に内装業者に設計を依頼し始めた。

 

ところが。竣工予定の10月になっても工事は終わらない。私が購入したビルの躯体は一応出来ていたのだが、内装工事が全く終わらない。こちらで契約した内装業者には10月開始で発注していたので私の部屋の内装工事を初めて良いかディベロッパーに聞くと、良いという。そして作業を始めてもらったのだが、なんとビル自体の内装業者がこちらの業者が持ち込んだ部材をパクってしまったり(!)混乱極まりない状態に。これではあかん、と、こちらの内装業者には一旦待機してもらうことに。

 

そしてその年の12月。私含めたオーナー達が一同にディベロッパーから集められた。そしてディベロッパーから衝撃の一言。「続けていくお金がない」と。どうやら銀行の貸しはがしの対象になってしまったようで、内装工事や他のビルの建設を続ける資金が枯渇してしまったようだ。「契約を一旦解除させていただきたい。契約書に従って皆さんから預かったお金は返却する」と。そしてそこから"銭"闘が始まったのであった。

 

次回に続く)

計画と経営

私は大学時代「社会工学」という学問を専攻していた。簡単に言うと社会事象を工学的に研究する学問であり、大きく、計量経済系、OR系、そして土木・建築系である都市計画の3つに分かれる。大学院までの自分をカテゴライズすると、「社会工学」→「都市計画」→「土木(交通)計画」→「発展途上国の交通計画」という枠組みになろう。そして博士号取得後、その延長で発展途上国の交通計画策定を最も得意とするコンサルタント会社に入社した。今でも自分は発展途上国における交通プランナーだと自認している。

 

ところが、最近私が行っている仕事の中心的な業務はいわゆる土木計画からは少し離れたものになっている。鉄道運営会社の設立支援だ。改めて自分のCV(履歴書)を確認すると、2010年からホーチミン、ハノイ、そしてジャカルタで継続的に同様の案件に携わっていた。ハノイの案件では副総括を務め、ジャカルタでもグループリーダーとして携わっている。

 

鉄道運営会社の設立支援の案件、と一言で言っても検討するべきことは山ほどある。まず、会社をどのような位置づけにするのか?地方政府の下部組織か、独立した組織か、その場合どの政府機関が管理者になるのか?株式会社なのか、はたまた異なるのか… そして、民間の資本を入れるのか入れないのか、入れるとしたらどのような形態にするのか?全て民間に任せるのか、あるいは一部にするのか?その場合、インフラの所有者はどうするのか?補助金は?運賃は誰がいつ決める?こういった大きい話から、現場の人間の職制はどうするのか?勤務形態は?彼らのキャリアパスはどう設定するのか?などの細部の話まで。鉄道会社をイチから作るわけだから決めなければいけない事が多いことは容易に想像いただけると思う。

 

では、土木計画を専門とする私がなぜこのような一見畑違いの仕事をしているのか?その問題意識はバンコクの都市鉄道を巡る話に帰着する。バンコクでは90年代初頭、当時世界一酷いと言われた渋滞の改善を目指して都市鉄道整備の計画が持ち上がった。一方のタイ政府には潤沢な資金がなかったため、民間資本での整備(いわゆるBOT)となった。民間資本によるインフラ整備は、政府の支出がとても小さくなることが期待され、かつノウハウのある外国企業がこれに関わることで最新の技術で効率的に運用することが出来る見込みが大きい、と一見良いこと尽くめに思わえる。ところが蓋を開けてみると、1999年に開業したタイのスカイトレインを管理するBTS社は2006年に経営破綻を起こし、一時期政府の管理下で経営再生を行った歴史がある。なぜこのようなことが起こったか?いろんな要因があるとは思うが、関係者の話を総合するに、鉄道インフラの運営・維持管理にかかるノウハウをタイ政府あるいはタイ側が習熟せず、常にコントラクター(であるシーメンス)の支援がないと自分たちでは何も出来ない仕組みを作ってしまった事が最大の要因ではないかと考えられる。

 

つまり、鉄道インフラを作ることはお金さえあれば出来るが、それを有効的かつ継続的に市民の皆さんに利用いただくためには、公的な視点に立った健全な鉄道経営のスキームもともに整備していかないと意味がないと思うに至った。交通計画の目的が都市の交通改善にあるならば、そこの最も肝となる部分を交通プランナーである自分でやらずに誰がやる、という使命感で10年近く走ってきたのが現状である。

 

そうは言っても、隣の芝は青いもので、直接的な交通計画に関わる仕事をしたくなる時もある。交通計画と鉄道経営、今後のコンサル人生で二つの車輪をバランスよく回していくことができれば、というのが今の目標である。簡単に言うと、計画のお仕事も回して下さい。

 

註:某人の指摘により最後の(笑)を削除しました。